4人子育てをしていて感じていた
生まれ持ったものって大きいなということ。
『初期仏教』の教えの本の中で
複数人子育てをした経験者はわかりやすいと書かれていて
激しく共感しました。
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・人は性格を持って産まれてくる、人生を左右するのは性格
生まれた時からプログラムができていて処理されていく
・置かれた環境によって判断基準を作り
・作られた価値観はなかなか変えられない
運命というより、当たり前のことだという。
もともこもないじゃん!!!
って言いたくなるような内容だけど、
事実から目を逸らしても前に進めないのは経験から感じてるから。
あかちゃんはすでにその子の『性格』を持って生まれてくる。
生まれた時は真っ白なんていうのは無い。
怒りっぽい、甘えん坊などあるが、これは良い、悪いではない。
知識・教育・訓練・しつけなどで調整することはできるが
そのためには親がその子の性格を『知っておく』ことが大事。
でも、これはよくみんな失敗する。
子どもを『客観的に』『独立した人間』と見ず、感情に任せてしまうから。
・生まれた時はみんな一緒
・この時期の子はこうであるべき
・我が子にはこうあってほしい
・こうやればこうなるはず
・あの子はこうなのに我が子は
など、『主観的に』『独立していない人間』としてみて
さらに感情的に任せて子育てしていることってあるなって思う。
わかりやすいうちに知っておくと、その後もうまくいく。
なぜ泣いているのかなど。例えば怒りっぽいあかちゃんなら怒りで泣いているのかなど。
その時、怒りっぽい子なら自分もつられて怒ってはいけない。
つまり、子どもに合わせて接し方を変えることだ。
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子どもと接する時に何が大変かって
もちろん発達凸凹もあるけれど
4人それぞれ違いがあって違う接し方が必要なのに
それが器用にできないことだった。
もちろん、無意識に変えていたんだけど。
でも成長するにつれ
兄弟が増えるにつれ
子ども同士で比較して出る不満
それを間に受けて平等に感じさせないといけないとか
できている子を基準に比較してしまったり。
そもそも生まれ持ったものが違うんだから
同じことをしてあげることなんて不可能で
お互いにいいことなんてなかったのに。
ただ、これって
もちろん親の無知が一番なんだけれど
社会的にも流されていく要因は散りばめられていて。
『健診』という親のテストがあったり笑
周囲の人からの不安を煽る言葉かけがあったり
サポートがなく比較でしか安心できない子育て環境だったり
社会的にも子育てを個人の責任にし過ぎて
客観的になれないところもあるんじゃないかと。
いや、でもそれでも
親が知っていることで環境は変わる。
『客観的に』『独立した人間』として子育てをしよう!
今はそれが経験から少しずつ理解できている。
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また、自分の性格も知っておいた方がいいということ。
生まれ持ったものって大きいなっていうのは、自分にも感じている。
こんな自分じゃダメだって思っていたこともあるし
人の考えに影響をされ過ぎてしまったこともある。
でも、自分はこうなんだと、事実を客観的に見ていくしかない。
性格は改良できるという。
なんでも『主義』にしたり、偏見で見て『判断』するのは無知。
知識の怠け。
この世は無常で、決めつけることはできないのだから。
悲観も楽観もせず、しがみ付かず
常に自分を改良する、精進を続けること。
人生は与えられているものではない。
人生は障害克服の連続、いつでも障害がある。
障害が嫌だ、なんて思ってもそれが真理だから
あるものだと受け入れる。
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わたしはわたしのもつ『性格』で
我が子たちそれぞれがもつ『性格』に合わせて
『客観的に』『独立した人間』として接する。
良い、悪い、もないし
比較対象もない。
無常な世の中で、自分を改良し続けること。
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『初期仏教』
生きることは苦だなんて言ってしまうんだけど
悩んでいる人の救いになる教えがたくさん。